やはり我が九大アメリカンの草創の志士達といえば第1期から第3期までの17人であろう。練習場所を確保するのとメンバーを集めるのが一苦労であった。練習場所は潮井公園が一番多かったと思う。貝塚Gを使えるのはラグビー部が他のグラウンドで試合があるときだった。その頃は他のチームでも専用に使えるグラウンドがあったのは久留米大学くらいではなかったか。福大でさえラグビー場の隅でやっていた。練習には大部分のメンバーはまじめに来ていたが中に数人パチンコ屋や雀荘から首に縄をつけて引っ張って来なければならない者もいた。とにかくメンバーを集めなければ練習にならないのだから。
あの頃はみんな体力には自身があった。多くが高校の部活の経験者で、サッカー部、ラグビー部、柔道部が主なところ。中には農作業で誰にも負けない体力を有する奴もいた。アメフトに関しては福元ただ一人が頼りであった。プレーはほとんど彼一人で考え、QBとして実行した。我々はただ目の前の相手を倒し、空いた所を走り抜けた。基本は柔道もサッカーも同じで、格闘技だ。
初めての公式戦は福大戦であった。福元は勝てると豪語していたが、いつも練習ではハーフのスクリメージしか組めず、練習試合さえもしたことがなかったため、極めて不安であった。なんせゲーム経験者は福元と私の二人だけであった。そこでいやがる福元をパチンコ屋で説得し、デビュー戦の少し前に高校生と産大生のトロージャンと練習試合をした。ほとんどの者にとって初めてのゲーム。OB会でも今まで一回もこのゲームの話をしたことがない。それほどみんな思い出したくない悲惨なゲームであった。なんせ初めてフルスクリメージを組み、初めてチームのメンバー以外の者を相手に真剣にブロックし、タックルしたのだよ。当時は攻守とも同一メンバーだから体はボロボロ、体力は最後までもたない。誠に悲惨なゲームであった。こんな状態で福大と対戦したのだから、試合前日のみんなの覚悟は推して知るべし。中には遺書まで書いた奴までいるらしい。
このチームが2戦、3戦と試合を重ねるうちにそれらしくなり、他のチームに恐れられるようになるのだから大したものである。2年目のシーズンでは福大を後1歩まで追い込んだが、逃してしまい2位。初めて福大を破り優勝したのはデビュー戦から3年目のことであった。
(日高 健)
<第1期部員>
緒方 章司(85・SE)日高 健(75・NG)日高 良治(36・UB)福岡 照雄(45・TB)
福田 晋(28・UB)福元 和昭(9・QB)藤沢 基弘(86・SE)山口 賢一(59・C)
九大パルーカスの部創立20周年につき、心よりお喜び申し上げるとともに、日高OB会長を始め関係者の皆様のご尽力に感謝申し上げる。
また、最近の輝かしい歴史を作り上げてきた多くの後輩諸君に改めてお礼を申し上げたい。
毎年のOB会を欠席し、OB会活動にも特段参加してこなかった(会費を納めるのみ)私としては、ただ頭が下がる思いである。
さて、私が九大パルーカスの一員であった頃、パルーカスはあまりにも素朴であった。練習場は、箱崎埠頭近くの公園の一角を利用する有様であったし、部員数も少なくなかなかまともな練習はできないという状況であった。試合についても、3期生が入部して、やっと出場できるようになったわけであるが、試合に出場可能な人員はたかだか10数名程度であったため、もちろん2プラトーンが出来るはずもなく、キッキングも含め全てフル出場であった。確か時計ストップなしのぶっこみ25分の4クォーターであり、とにかく2時間近く、走りっぱなし、当たりっぱなしであったため、試合の翌日は完全にグロッキーであった。「とにかく、きつかった」というのが当時の偽らざる思いだった。
しかし、当時は試合に出場できること自体が喜びであったし、一つ一つの勝利がまた格別のものであった。永遠に忘れ難い古き良き思いでばかりである。
今の後輩諸君は、全く違った喜びを味わっていると思うが、とにかく青春の素晴らしい1ページにふさわしい思い出を作ってほしいと思う次第である。
ところで、後輩諸君に一言申し上げたい。私の職場は三菱重工(株)長崎造船所の人事であり、九大を含む九州地区学生の採用活動にここ数年従事し、多くの学生と接して強く思うことであるが、学生時代は、まず勉学に十分力を注いでほしいということである。学生の本分はやはり勉学であり、純粋に勉学に打ち込める時代は学生時代しかないのであるから、それを肝に命じて頑張ってほしい。採用面接等で、「大学で何をやったか」と聞かれたら、是非「勉学とアメフトに一生懸命打ち込んだ」と答えてほしい。決して、「アメフトのみに打ち込んでいた」などと言わないように・・・。更に、学生時代に自分が社会に出て何をやりたいかということについて、真剣に考えて、そして自分の進む道を決めてほしい。その辺が不完全燃焼のままであると、その人の一生は不幸である。
後輩諸君は、アメフトはもちろんのこと、何事にも全力をつくしてくれることを信じている。
後輩諸君の今後のますますのご活躍を祈念申し上げる。
(大熊 稔幸)
<第2期部員>
大熊 稔幸(69・G)濱崎 茂敏(77・DT)森田 和郎(1・TB) (物故)
我々3期というのは、九大アメリカンフットボール愛好会が始めて公式戦に参戦する年に入ったメンバーである(というか、我々新入部員6人を合わせてチーム全部でようやく17人となり試合可能となった。
簡単に、3期のメンバーを紹介しよう。
No.22(UB、主将)堤 忠彦:3期の中での(というか多分歴代部員の中で)スーパーアスリートと言っても過言ではない。柳川弁で部員に渇を入れていた姿は恐ろしい反面親しみがあった。
No.73(DT、主務)秀島哲雄:彼の性格は温厚そのもの。試合での出来、不出来は応援の有無に左右されていた。彼のスカイライン1800DXは、防具の運搬や練習場への移動など我々の貴重な足でした(感謝)。
No.5?(LB)片平正宏:当時としては異色な長髪がヘルメットの後ろから見え隠れしていたのが印象的。重心の低いタックルは定評があったものの、逆にバックペダルに難があり、パスディフェンスに不安が・・・
No.63(G)西口達也:下宿の布団の下の畳は黒いカビが生えていた。沖永良部出身の彼と弟の電話での会話「YXVTSR冷蔵庫、Z[XWVYタンス・・・」名詞しか判らなかった。卒業後の消息が不明です。どなたかご存知の方いますか?
No.62(NG)福原克也:途中入部ながら、その驚異的な腕力でディフェンスの中核であった。卒業後は日本たばこでアフリカを徘徊しているそうだ(JTのCMでそういう風に紹介された)が、今はどこに?
彼ら以外にも、初公式戦のスタートQBであった柏原君、入退部を繰り返した飯田君らがいました。
愛好会から同好会を経て部に昇格した時期に位置した我々は、九大フットボール部(というか九州のアメリカンフットボール界)の極めてマイナーな頃を過ごした。当時の練習風景を紹介しよう。練習は文系キャンパスの空地(現アーチェリ場)で、校舎の窓明かりの照明の下で行った。キッキングゲームはもちろん、30ヤード以上の長いパスの練習は出来ない。普段の練習には10人くらいしか集まらないのでハーフスクリメージすら行えない時がしばしばあり、ただひたすら1 on 1ブロッキングと走ることばかりだった。試合前はプレイチャートの確認をするのだが、当然対面がいないので空気を相手に皆ブロックをしていた。そんなハングリーな時代でした。
(大内 周)
<第3期部員>
大内 周(31・DE)片平 正宏(28・LB)堤 忠彦(22・UB)西口 達也(63・G)秀島 哲雄(73・OT)
福原 克也(62・C)
1981年11月8日、この日はパルーカスにとって記念すべき1日であり、4期のメンバーにとっては忘れられない一日である。初優勝を狙う九大は、秋季リーグ第2戦で、7連覇(秋季リーグ戦では無敗)を狙う福大と対戦した。春季オープン戦では0−0で引き分けていたこともあり、雌雄を決する一戦となった。
コイントスに勝った九大はレシーブを選択し、最初の攻撃シリーズは自陣25ヤードからであった。この最初のプレーでQB杉野(当時3年)がコールしたプレーはプロIの右オフタックルフェイクからのプレーアクションパスであった。QB杉野からのパスは、右WRの位置からストリークのコースでフリーとなった牛嶋(当時3年)がレシーブし、第1プレーでの先制タッチダウンとなった。このプレーでゲームのモメンタムをつかんだ九大は、その後3TDを追加、守備も福大攻撃を完璧に封じ込め、24−0で完勝、福大の秋季リーグ戦連勝記録をストップさせた。九大は、この後の九産大戦、西南大戦にも勝ち、初優勝を全勝で飾った。
シーズン終了後の12月には、九大体育総務委員会に部昇格の申請書を提出、圧倒的多数の賛成が得られ、アメリカンフットボール同好会の部昇格が決定した。こうして、1981年はパルーカスにとって最高のシーズンとなった。今から15年前のことである。
当時のエピソード
当時のパルーカスは「フィールドの中ではシビアに、フィールドの外では楽しく!」をモットーにした少数精鋭のチームであった。人数が少なく、一人二役は当たり前で今はやりの「スラッシュ」もすでに存在していた。
攻撃体型はプロI、重量ラインを軸に力強いランプレー(ダイブ・オフタックル・スィープ・オプション)とパスプレーをバランス良く展開。守備体型は5-2-R。堅守を特徴とした守備型のチームであった。
人数不足のため、スクリーメージ練習は片側のみ。試合ではキックによるTFPはなし。試合時間の計時も曖昧で、ラグビーの試合を思わせる。試合終了間際でのレフェリーの「ラスト1プレー」という声が懐かしい。
最後に
初代マネージャーとしてパルーカスをささえてくれた山口佐和子さん、本当にありがとう。
(犬童 靖浩)
<第4期部員>
石原 浩一(83・TE)犬童 靖浩(16・R)牛嶋 純(27・WR)佐々木貴幸(58・LB)杉野 光(19・QB)
田中 健太(66・G)八尋 康徳(72・OT)山口 佐和子(M)
1979年に入学、アメリカンフットボール同好会「パルーカス」の門を叩いたのは総勢9名、現在の状況とは大きな違いであろう。さらに、厳しい「稽古」に耐え最後に残った者はわずか5名。−九州のフットボール界にストレッチを導入したフィジカルアナリスト有村。練習嫌いな天性のアスリート末田。冷静な判断を名古屋弁で伝える大橋。チームを纏める心優しき副将深町。そして、入学前から練習に通った燃える闘将松田。
1年次('79)、堤主将の下準優勝、2年次('80)八尋主将の下初優勝そして念願の部昇格と、この時代九大は九州のトップを目指し登りつめる黄金の創世記にあった。
この大きな遺産を引き継ぎ、幹部として迎えた3年次、春のトーナメントには優勝したものの秋は最終戦西南に惜敗の準優勝。責任の重さを痛感し、悔しさに涙した。
雪辱を期して臨んだ4年次の秋季リーグ。初戦は九産戦。開始早々QB吉田を負傷で欠く不運。この試合TFの2点差で何とか勝ちを掴んだものの、その後の2試合は急造のQBによる苦しい戦いを余儀なくされた。こうした状況の中、最終戦まで無傷で進めたのは、この年から始めたビデオによる他チームのスカウティングにあった。特に、この秋QB岡本を擁して波に乗る福大には、スカウティングに基づき練り上げた攻撃的なディフェンス戦略が的中、完封の勝利であった。
この年も最終戦は西南との全勝対決。最初の攻撃シリーズ、秘策のFryingladyに浮き足立つ西南にセンターダイブからTD、前半は完全な九大ペース。12点リードで迎えた後半、TE大橋を鎖骨骨折、DE深町を脳震盪で次々と欠き一転して西南のペース。主力選手の大半が攻守をかねた時代、まさに死力を尽くした戦いは12-12の引き分け。同率優勝とはいえ、今でも悔しさのこみ上げる最終戦となった。
防具をつけてまでぶつかり合うアメリカンフットボール。要求されるものは多い。戦略に向け戦術と体力を磨く強固な意志と精神力。代償としてグラウンドで得られるものは肉体の苦痛だけ。−それは今でも手足の至る所に傷として残るー。しかし、それ以上に心に深く残るのがチームの一員して味わった感動、苦しみと喜び。経験した者だけが知りうる最大の魅力である。
社会に出て働く現在、身体にたるみは出てきたが、その中を流れるのは、あのグラウンドを走り回った当時と同じ、パルーカスの洗礼を受けた熱い血である!
(松田順一郎)
<第5期部員>
有村 光典(15)大橋 秀樹(82・TE)末田 公也(33)深町 寿洋(74・OT)松田順一郎(32・UB)
今井 洋子(M)三原 奈穂美(M)
PALOOKAS誕生20周年おめでとうございます。ご指導を頂いております大学の関係各位殿をはじめ、OBの諸先輩型、青春真っ最中の学生の皆様に支えられ、我が部も20周年を迎えたこととなります。関係者の方々に厚くお礼申し上げます。
人生で考えれば、ちょうど成人式を迎え大人の仲間入りを果たしたことになります。アメフトとしての戦術、練習方法、メンタルトレーニング、その他関係各位からのバックアップ体制、さらにOB会としても、我々の頃からは大きく飛躍し、着実に甲子園ボウルに近づきつつあると考えます。
今回は、この場を利用させていただけることになりましたので、とりとめもないですが、第6期のころのPALOOKASのを振り返ってみたいと思います。
(1)練習
土曜日以外は汐井公園。最初は5〜7名ほどしか集まらず、練習のローテーションが早くかなりきつい。汐井公園は黒土で汚れやすい。屋根もなく。雨が降ると見を隠すのが大変である。トイレの水は勢いが良く流れるが、汚くて臭い。たまに浮浪者も出没して危ない。照明設備がないので11月下旬頃は6時を過ぎればボールが見えなくなってしまう。土曜日は貝塚グラウンドをラグビー部と一緒に使用(ラグビー部が優先)しているが、よく端っこに追いやられた。しかし、土が柔らかくスパイクのかかりが良くて好きだった。
(2)試合
土曜日の練習後は、「雀平」「だるま」17:00キックオフが定番であり、23:00ごろ、長浜の屋台ラーメンで締めるのが日課となった。大体、大負けした奴が次の日の試合で活躍したものだった(「国士」を振り込んだ時は福大第1プレーQBサックファンブルリカバーなんてこともあった)。
1、2年の頃は、ダイブとオフタックルだけで九州を制したが3、4年では九産大に雨中オフタックルだけで30点とられたこともあった気がするほど、PALOOKASにとっては暗黒時代を築いてしまった。また、めったに使わないオーディブルを覚えるのに一苦労したりもした(ちなみに筆者は良くカウントを間違え、反則を取られた。SORRY)。
やはり、九大、西南大、福大の3強であったが、福大の練習風景を見てこいつ等の体力にはかなわないなと感じたにもかかわらず対等にゲームを戦えたのはアメフトの面白さだと感じる。後日、ビデオカメラが日常的になった頃は対戦相手のスカウティングに威力を発揮し、授業中はずっとオフェンスプレイとディフェンスシステムを考案していたものだった。
(3)部員交流
九大アメフトの特徴として、上下関係に束縛されないという気風がある。試合後は必ず全員で祝勝会(勝っても負けても)を実施していた。待ち合わせはいつも天神ビルエントランスで、良く行った店は「信長」「家康」「村一番」である。一説によれば、あまりの醜態のため「村一番」出入り禁止になったことも・・・?。ちなみにこの頃は「カラオケBOX」なるものもなく、風営法が施行されてまもない頃であり、雀荘に警官が来たことや23:00にファッションマッサージ店がCLOSEしたりもした。
秋は8月の盆明けにシーズンインし、9月第1週までプロテクター無しのダッシュが中心の練習となる。毎日ダッシュ量を増やして、最終日は1000ヤードとなる。そして、次の土、日で旅行会がとり行われていた。ここに、その時のスナップ写真(熊本:通潤橋)を載せます。この時もいろいろとハプニングがありましたが関係者は懐かしく思い出してください。
(4)まとめ
とりとめもないことを、いろいろと書ききしましたが、九大アメフトの歴史の1ページとして、こんな時もあったのかと思ってください。
それでは、これからのPALOOKASに栄光あれ!
(水口 信章)
<第6期部員>
岩崎 秀敏(69・RG)内場 大和(48・RB)神代 和典(65・G)中村 崇(45・CB)
水口 信章(79・RT)吉田 学(8・QB)
我々7期がプレーした時代は、九大アメリカンフットボール部がまさに成長していった時代であったように思う。 我々が入学する前年に、創部まもないパルーカスが初優勝し、実力的にはそうとうなものであったが、部としてはまだまだやらなければならないことおが山積みであった。 現在では当然であろう貝塚グラウンドの練習も、週に2度程度しか使用できなかったが、この4年で毎日つかえるようになった。 各学年の人数も少なかったためリクルートにも力を入れ、4月に六本松の教養部で公開練習を実施したのもこの時代である。 広大との定期戦も始まった。試合ごの大はしゃぎは当時からである。バスをチャーターして長崎へ遠征もした。 とは言っても帰りのバスは大歌合戦で多いに盛り上がった。とにかくいろんなことにチャレンジしていたように思う。 試合、練習もより理論的、組織的、体系的なものへチャレンジしていった。 しかし理論だけでは試合には勝てるはずもなく、練習は相当きつかった。1年の夏の練習後、よく「やめたいなあ」と言っていたものである。 我々7期は6名である。 練習をサボるのが上手で酒を飲まされないようにする演技力が抜群のムードメーカー福田。でも練習をサボるのに彼のプレーは最高です。 一年の時自動車学校が卒業できないからと退部するも、アメフトへの情熱からカムバックした宗像。 曲がったことが大嫌いでディフェンスがタックルにこようがイノシシのごとく突進する男の中の男松尾。 ヘルメットをかぶると赤ちゃんに見えてしまう7期のマスコット高峯。 ハドルで声を出すとどうしても「ヘイヘイハー」としか聞こえないダンディ中村。 興奮するともろに大阪弁が出てしまう私、秋田。 入部前の優勝から1年2年時は共に2位。しかし先輩方の穴を我々が埋められず3年時は屈辱の4位。 しかしこれをばねにゼロからの再出発で勝ち取った学生最後の年の優勝。本当にいい経験、勉強をさせてもらった。 そして最高の仲間(先輩後輩も)に出会えた。 いい経験といえば当時関東で有数の強豪、立教大との試合(新日鉄起業祭)はさらに上の世界を経験できた。 20年。まだまだパルーカスの発展は限りないだろう。 いつの日か同期みんなで集まり、九大アメリカンフットボール部の試合を観戦することが夢である・・・甲子園で。
(秋田 昌宏)
<第7期部員>
秋田 昌宏(21・S)高峯 寛(49・CB)中村 良法(87・DE)福田 勝(80・R)
松尾 健司(37・RB)宗像 康充(58・DT)
パルーカスも今は大型チームになったようですが、当時は結構小人数でやっていたなと思います。 私達の代も、最初は12人ほどいたのが、秋には6人になってしまい、 2年になって藤野君が入って、何とか7人になりました。 しかも、我々には高校時代にまともに運動部に所属していた者がいなかった為、3〜4年生の様にうまくなれるか不安でした。 しかし、上の先輩達も6人ずつぐらいで少なかった為、スクリメージに早くから入れてもらい、 1年の秋には、掛川君と池永君がスターターで出場していましたし、 2年の春には、4〜5人がスターターだったような気がします。 今では、きっと有り得ないことなのでしょうが。 私達の代は、傑出した選手はいなかったし、ラインが多くて地味な代でしたが、部員数の少なさ故に休むまもなく、 強くて巧い先輩達と練習ができたので、当時の九州リーグのレベルでは何とかやれたのだと思います。 試合の思い出としては、対西南戦がやはり一番印象深いです。 1〜2年の時は、相手の大きく強いラインと福島・永松という優れたRBコンビに強い印象を抱きましたし、 3年のときは西南に勝って優勝することができました。 また4年の時には、結局1点差で負けましたがオンサイドキックを2回もやったり、乱闘があったりと、緊迫した試合でした。 残念だったのは、審判のレベルが低かったことで、どちらも九産大の人がやっていたような気がしますが、 3年次の西南戦では、相手がキックオフリターンでファンブルしたボールを拾ってエンドゾーンまで走ってTDという 当時は認められていなかったルールを審判が認めてしまって、後味が悪かったですし、 4年時の西南戦は、オンサイドキックの判定を審判がしっかりできなかったのが、乱闘の原因でした。 今の審判のレベルが、上がっていることを切に祈ります。 ただし、甲子園ボウルなどを見ていて思うのは、私達自身のフットボールのレベルも低くて、自分が担当していたディフェンスは、 スカウティングもサインもほとんど無ければ、スイムなどというテクニックも何も知りませんでした。 その辺りがきちんとできていれば、もっとフットボールが楽しかったのではないかと思います。 後輩の皆さんには、とにかく強く巧くなってもらいたいし、頭も使ったプレーで勝ちつづけて、とにかく上を目指してもらいたいです。
4年間なんて、あっという間です。悔いの無い様、頑張ってください。
(福永 健二)
<第8期メンバー>
池水伸二郎(88・WR)井上 善文(55・C)掛川 修司(74・RT)北 一浩(3・QB)
高島 俊介(78・OT)福永 健二(64・LB)藤野 種明(81・S)民永 智子(M)
内場由美子(M)山下しのぶ(M)
創部20周年、誠におめでとうございます。第9期(昭和63年卒)一同心よりお喜び申し上げます。また、今回「YEARLY PALOOKAS20周年記念誌」発行にあたりご尽力を頂きましたOBならびに現役スタッフの方々のご苦労に敬意を表しますとともに、深くお礼申し上げます。
さて、第9期の紹介をとのことですので10年前を振りかえり思いつくままに書き綴ってみたいと思います。私達同期は計13名、オフェンス7名、ディフェンス5名、その他キッカー約1名、非常にバラエティーに富んだ個性豊かな(あくの強い)人材の集まりです。入部当初は20数名いたように記憶してますが最終的には上の写真のメンバーに落ち着きました。各人独特の個性と持ち味で特にスタープレイヤーがいるわけではないのですが攻守ともにバランスのとれたチームでした。在籍当時の戦績もかなりよく2年時九州リーグ優勝、また4年時には年頭であった平和台ボウルに勝利を収めることができました。振りかえってみますと、その当時は毎日貝塚グラウンドで練習を開始する時に2〜3名しか集まらず非常に苦労した覚えがあります。1学年5〜6名という代がほとんどの中で私達の代は恵まれたほうでした。そんな中から徐々に院へ進学した方や、はからずも留年した方に忙しい時間を割いてコーチングスタッフとして活躍していただきました。本当に感謝しております。強いチームにはそれを支えるスタッフや応援してくれる人達が必ずいます。創部以来の伝統が最近形になって見えてきたことを大変心強く思っています。
とにかく、辛く楽しく泣いて笑った4年間を一緒に過ごした仲間は、10年たった今でも、会えばあの頃のままです。パンチ君、ケンカ小僧、サングラスをかけた吉川晃司、乱闘騒ぎの張本人48番、エッチ大好き少年、サル、人間ブルドーザー、二枚腰、マッチ棒、フットボールお宅、メットに女の名前を書く奴、さわやかQB、ジャンケン、計13名、今後も現役の皆様のご活躍をお祈りすると共に、微力ながら応援させていただきます。創部20年を迎え、更にPALOOKASが大きく飛躍されることを確信しながら・・・・・。
(岡本 竜一)
<第9期部員>
荒木 龍郎(64・C)石川 肇(44・RB)梅田 善郎(68・G)遠藤 秀夫(35・RB)
大野 完(83・TE)岡本 竜一(10・QB)川村 昭和(16・R)高井良久弥(15・FS)
築山 修士(34・CB)野嵜 武秀(52・G)平山 靖博(1・S)宮本 秀幸(39・LB)
森 和彦(48・WR)
早いもので大学卒業後ほぼ8年が経過したが、この機会に我々第10期が選手だった当時を振りかえってみたい。1985年度入部の我々は、歴代でも波乱万丈の経験をしていると思う。
1985年度の新人当時、冬を迎える頃選手は40名程度だったと記憶している。我々と1期先輩の第9期の方々とで6〜7割だった。スクリメージは左右どちらか一方ずつしか練習できなかったが試合前で無い限り新人でも参加できた。今思えば汐井公園の広さにちょうど合う人数であった。1つのポジション争いの人数は当時でも人気のRB・WRを除いては各々2名程度だった。
我々は応援意外ほとんど貢献していないが諸先輩方の努力の甲斐あって、幸運にもこの1985年度は九州リーグで優勝し平和台ボウルに出場することができた。当時新人は白の練習着に黒マジックで大きく名前を書くことになっており、先輩のカラーユニフォーム(時にはNo入り)と比較すると最悪だった。卒業後のある日、帰省して練習を見に行った時、貝塚駅へ地下鉄があがっていく車窓から、カラーを着ているくせにヘタクソ選手がいるのを見て、後で聞いてみると新人だったが、新人にカラーが許される自由な時代の到来に驚いたほどである。祝勝会もよく行われていたが新人に運ばれてくるのは酒ばかりで、2次会まで行っても焼き鳥2本しか食べられないことがあった。「すきっ腹に一気!」。今では考えられないことだと思う。「気合を入れて走れ」と練習後、先輩をおぶって箱崎グラウンドを走らされていた同期がヒイヒイ言ってたりしたのを今の選手は想像できないだろう。
後輩が入部してきた1986年度は人数も増え、スクリメージがフルメンバーでできるようになってきた。新人歓迎会の居酒屋でおっかない新人同士がケンカしたりして後輩を持つのも大変だと思った。そのうち部内では練習終了後、麻雀がほぼ毎日行われるほどの「麻雀ブーム」となった。各人の卒業までの収支はわからぬが、当時の参加者の実力を察すると次の通りであろう。
勝越し:森(9期)、新留、徳永、内田*(10期)、杉野(11期)
負越し:荒木(9期)、松尾、塚元、西山*(10期)、城戸、高辻、杉山(11期)、岡本(12期)
(敬称略、*は後退部)
秋季リーグは全勝同士の西南戦が事実上決勝戦となったが、パルーカスはわずか1点(1TFP)差で涙を飲んだ。この試合はオンサイドキックをめぐり両軍大乱闘となり、あわや無効試合というものだった。
そうして我々が最も思いで深く、部誌に大きな1頁を残したと思うのが1987年度である。このピーク期にチームの一員でいられてとても良かった。データは手元に無いが、当時チームはオフェンス・ディフェンスともに九州最強であった。コーチングスタッフ・マネージャーに至る全てが充実していた。秋季リーグ戦全勝で臨んだ平和台ボウルも山口大を攻守共に圧倒、横浜スタジアムで行われる地方学生リーグ王座決定戦の初出場が決まった。平和台ボウルの祝勝会が中洲で行われたが、ある後輩が水上公園の噴水で泳ぎ出し我々を驚かせたが、今でもそういう無謀な若者がいるのだろうか。
最終学年となった1988年度。前年度の主力選手が卒業し不安はあったが以前より選手層が厚くなっていたこともあり春の練習試合で当時関西1部リーグであった神戸大学に快勝し(九大2TDに対し神戸大0TD)、秋季リーグに手応えを感じたが、広島大学との定期戦以降オフェンス選手を中心にスターター選手が相次いで膝靭帯断裂等の重症で戦列を離脱し、秋季リーグ初の最下位となり2部の九産大との入れ替え戦を行うこととなった。僅差だったが何とか1部に残留し面目を保った。最後にOB・選手の皆様の御健康とますますのご活躍をお祈りいたします。
(新留 聡)
<第10期部員>
片野 裕(50・C)古賀 一治(77・LB)塚元 正浩(25・RB)徳永 修二(85・WR)
永嶋 一史(33・CB)永嶋 聡志(54・NG)新留 聡(81・TE)波多野 雄治(9・K)
松尾 泰成(79・DT)上野 由加里(M)藤崎 美奈子(M)
我々11期7名は、(もちろん大学1年時は20名ほどいたのであるが・・・)天国と地獄を見た期である。
大学1年時、九州リーグ第2位。2年時優勝、地区王座戦進出。3年時悪夢の1部リーグ最下位、何とか入れ替え戦に勝利し、1部残留。4年時第2位・・・
本当に天国と地獄の4年間であった。・・・
この苦楽を共にした仲間を紹介したいと思う。(名簿順)
#91 WR 井原三晴
小太りの体型に似合わず、キャッチングのセンスは天下一品。後年マネージャー「なっちゃん」と結婚。
#87 CB 杉野 辰也
クイックな動きと、甘いマスクで女性ファンが多かった。しかし結婚までの道程には、かなりの困難があった模様である。
#5 ほとんど全てのポジションをこなした 城戸 康宏
ケガに強く、器用にどのポジションもこなすオールマイティプレーヤー。同期の予想通り、ダントツ1位で結婚。子供はもう小学生か?
#53 G 杉山 博良
決して大きな体ではなかったものの、ラインの中核として君臨。人生設計は、城戸にかなり水をあけられている模様。
#73 C 高田 貴
我々の期のシンボル的存在。酒と涙と男と女をこよなく愛する男。見た目に似合わずかなりの浮名を流すが、最近は大分落ち着いた模様。
#13 RB 高辻 量
アスリートとしての才能はオリンピック級。怪我に泣かされた4年間であったが、スピード、パワーはオールジャパンクラス。尚、愛のタッチダウンはしばらくおあずけか?
#24 RB 兵頭 健司
100メートル11秒2の俊足をもち入部するも、予定外の体重増で怪我に苦しんでいた模様。しかしスプリト力は非凡。結婚に関しては同期全員フェイクに引っかかった模様。
#12 QB 田中 誠一
上記紹介文は全て私の私見でございますので、あしからずご容赦下さい。
(田中 誠一)
<第11期部員>
井原 三晴(91・WR)城戸 康宏(5・CB)杉野 辰也(87・CB)杉山 博良(53・RG)
高田 貴(13・RB)高辻 量(73・RB)田中 誠一(12・QB)兵頭 健司(24・RB)
大西 由紀子(M)芝 あずさ(M)小山 佐知子(M)井原 奈津子(M)
前年の入れ替え戦で辛くも1部残留を決め、チーム作りを手探りながら始めた春のシーズンから、そして秋の最終戦が終わり、1部同率1位という結果が出るまでの1年間、薄れた記憶を頼りに、振り返ってみたいと思います。
'89チームは3年生幹部主将桑原、副将金平、主務中島が中心となりスタートしました。目標は九州リーグ制覇です。手始めはオフシーズンの走り込みでしたが、例年にない寒さと大雪の中の長距離走を思い出します。楽しく走ろうと取り入れたサッカーではボールが転がらないこともしばしばでした。徐々に寒さも緩み春の練習試合を迎えましたが、後半の西南大戦大敗という大きな課題を抱えながらも、チームは形を整え前年失った自身を確実に取り戻しつつありました。
春のシーズンでの手応えを残しながら、秋の本番へ向けて、夏練習が始まります。2年生が多くのスタメンを占める若いチーム構成であったため、経験の浅さをどう克服するかが課題となりました。そこで、現在では当たり前になっている2部練習を取り入れました。昼の気温の上がる時間はリーグの規定により禁止されていたため、朝と夕の2回各約3時間ずつです。この夏の思い出は、大変長かったスクリメージの練習です。各々攻撃側、守備側の持ち時間を前もって決めていましたが、一つ一つの意図したプレーが上手く行かないと、攻撃側は「通るまで」、守備側は「止めるまで」といった具合で終わりません。春の西南大戦に大敗した悔しさを思い出して、「そんなことで西南に勝てるか!」と互いに叱咤しました。この長い時間を使った実戦形式の見かえりは多くの故障者を出すマズイ結果となり、2部練習最後は練習メニューを組めず、バス1台を借りて打ち上げをかねた志賀島への海水浴と相成りました。チーム運営の難しさを痛切に感じた夏でした。
多くの不安を抱えて始まった'89シーズンは終わってみると、福大に惜敗しての同率一位という結果です。多くの選手の無念さとともに、確実に翌年につながった結果と、今思われます。前年幹部の先輩の熱心なリクルートで得た2年生アスリートが確実に成長した1年でもあったからです。
新生パルーカスが確かな足取りで次の一歩を歩み始めた1年間でした。
(桑原 貞好)
<第12期部員>
井上 国治(27・CB)岡本 修(20・RB)奥地 宏成(76・NG)金平 徳之(59・LG)
桑原 貞好(7・LB)小出 主税(84・TE)佐々木 晋(3・WB)永井 英輔(30・RB)
中島 秀敏(70・T)永田 秀和(47・S)三坂 昭博(28・RB)井上 貴美子(M)
中村 恭子(M)川辺 尚子(M)有田 香織(M)
仕事柄、原稿はほぼ毎日書いていますが、今回ほど難しい注文はありませんでした。2期下の中河原君から連絡を受けたのがなんと締め切り2日前。1000字と長く、おまけに私はその時、1ヶ月もの長期出張中だったのです。思わず二の足を踏みましたが、同じ主務を務めた間柄と、巧みな話術に乗ってしまいました。「文章といえば堀川さんでしょう」。すっかり気分がよくなって快諾。ところが依頼文には「その年代の特徴を表現していただけたら・・・」とのこと。個性派ぞろいの同期を表現することこそ、一番難しい。真面目過ぎるのも面白くないし、内輪受けも自己満足なだけ。仕事で原稿を書くことよりも本当に苦労しました。
あまりに長い前置きにウンザリした所で本題に移りましょう。我々の同期のことで真っ先に思い出すのが「よく食べたなあ」ということです。土日の練習、もしくは試合の後によく徒党を組んで駆け付けたのが九大病院前の鳥料理「犬丸」です。この名前を知らない人はアメフト部にあらず。鳥のオイル焼きに水炊き、空揚げとご飯・・・。店の2階で夜12時過ぎまでうだうだしていたのを思い出します。それから同じ九大病院前の「八仙」も忘れられません。我々の時代は1650円だったと思いますが、それで食べ放題を実施されていました。ある試合の後、8人ぐらいで昼飯を食べに八仙閣を訪れました。いやー実に食べました。何と昼の12時に食べ始め、店を出たのが夕方の6時!昼食と夕食をそこで済ませたんですからねえ。ちなみにそれから数ヶ月後、恐らく見せの保身のためでしょうが、食べ放題企画はなくなりました。
そうそう、香椎ファミリーランド内の「浜勝」にもよく行きました。ご飯と味噌汁、レタスに漬物が食べ放題でした(今もそうでしょうか?)。その時も6人ぐらいで行ったんですが、我々のあまりに過激な御代りぶりに、ついに店員から「次から有料にします」と注意をうけたほど。「何て感じの悪い店員だ!」と勝手に怒ってしまいましたが、本当に恥知らず者でした。それから空港近くのステーキ屋(名前忘れました)も好きでしたね。肉屋と合体しているので肉が実に上手い。また通は井尻の「双葉寿司」も常連でした。尋常じゃない大きさのネタがドーンと乗っていて、半端じゃないボリュームでした。うーん、どこも汚れない若人の胃袋を満たすのには申し分ない店ばかりでした。
エッ?肝心なグラウンドのことですか?当たり前じゃないですか。そんなのとっくに忘れましたよ。確か在学4年間、一度も優勝できなかったことだけは鮮明に記憶しております。ハイ。
(堀川 敏毅)
<第13期部員>
浅井 務(64・DT)市川 明(94・LB)岩下 芳典(62・RG)大城 壮士(78・DE)
奥本 克己(95・DE)木村 康浩(63・LB)古賀 賢一(18・FS)榊原 維高(47・R)
塩塚 和政(15・WR)清水 宏二(56・RG)瀬ノ口輝紀(1・WR)高倉 晃成(89・DT)
竹下 和伸(11・WR)谷口 滋晴(16・QB)中村 純也(32・RB)半田 豊和(2・CB)
堀川 敏毅(74・LT)松島 靖浩(55・C)米森 敬悟(45・LB)松本絵里子(M)
横小路和子(M)
PALOOKAS創部20周年おめでとうございます。
我々第14期が入部したのは、今から8年前の1989年。時代が変わり、平成となって始めての新入部員であった。入部当初、チーム内には、創部以来初のリーグ最下位からの再起と復活をかける意気込みに異様なまでの雰囲気が漂っていたように記憶している。
さて、我々が在籍した4年間は、おりしも、九州リーグにおけるフットボールは成熟したフットボールへの転換期であった。これはPALOOKASにおいても例外ではなく、1990年、波多野監督就任により、チーム内の体制が強化されるとともに、チーム改革が実施される。そしてこの改革は2年後、我々が最終学年を迎える年に結実することになる。
1992年は、入部以来3年連続2位に甘んじていた我々にとって、そして優勝から遠ざかっていたPALOOKASにとって、まさに捲土重来の年となる。秋季リーグ戦において5戦全勝、5年ぶりの優勝を遂げ、続く平和台ボウルで山口大を一蹴。しかし、その後東京ドームで開催された地区対抗学生王座決定戦では、残念ながら東北大の前に惜敗、涙を飲む。
強烈なキャラクターと指導力でチームを優勝に導いたPALOOKASのハート&ソウル主将G#79白石。卓越したスピードとパス能力でオフェンスを率いたラン&シュートの申し子QB#17マッピー(松田:リーグMVP】。強靭な肉体と精神力を備えたオフェンスの屋台骨C#57都地、T#77坪内。リーグ史上最高のエアー・アタック集団WR#4東野、#23小林くん、#31豊西、#80雄二(塩塚:平和台ボウルMVP)、TE#99谷口。「硬い頭」が自慢、タフネス・ランナーRB#26下瀬、#36村山。「理論派」と「肉体派」の融合、ハード・ラッシャーDT#52川越、#54松尾、#82馬場。鉄壁のディフェンスを誇った4―3ディフェンスの要LB#48古村、#58長崎、#66友久、#97敦賀。「インターセプトしたのは、俺!」、デンジャラス・バックCB#81糸川、#90N(長町)、FS#43志賀、SS#88安富。チームを陰で支えた「紅二点」、マネージャー01森、#07山村(現姓山下)。
第14期24名。それは、PALOOKASが「瞬間最大風速」的にではあったが、最も全国制覇に近づいたシーズンを共に戦い、そして共に笑い、涙した最高の仲間達である。
現役諸君の更なる活躍と、PALOOKASの今後ますますの発展を祈念いたします。
(安富 憲一)
<第14期部員>
安富 憲一(88・S)糸川 高史(81・CB)川越 崇史(52・DT)小林 裕和(23・WR)
塩塚 雄二(80・WR)志賀 美智男(43・S)下瀬 健(26・RB)白石 勝人(79・LG)
谷口 明彦(99・TE)坪内 寛(77・RT)敦賀 研二(97・LB)都地 昭宏(57・C)
友久 保彦(66・LB)豊西 弘憲(31・WR)長崎 将志(58・LB)長町 剛(90・CB)
馬場 満也(82・DT)東野 良造(4・WR)古村 秀麿(48・LB)松尾 武(54・DT)
松田 幹秀(17・QB)村山 英和(36・RB)森 由紀子(M)山下 博子(M)
創部20周年おめでとうございます。九州のフットボール界を常にリードしてきたチームの歴史を築くことに、参加できたことを誇りに思います。
20年といえば人間にたとえるならば成人の年です。今まで経験してきたノウハウを活かして、更に飛躍していく時です。
私が現役・コーチを過ごしたのは、1990〜1995(15期〜20期)の6年間で幸いに、1993年と1995年と2回九州リーグ・平和台ボウルと勝ち進み、地区対抗王座へと出場する機会をいただきました。地区対抗では2度とも東北大学に敗れてしまいましたが、九州リーグを焦点にするのではなく、全国を焦点に考えるチームと変わってきつつあることを感じます。
我々が、入部した1990年は、波多野さんが監督になられた年であり、波多野さんと共にチーム作りをしてきたといっても過言ではなく、1995年の優勝は、コーチ主導によるチーム作りで、もちろん4年生が中心なのですが、コーチがプレーコールシステム練習にまで参加し、フィジカルコーチの参加など波多野さんの目指してきたチーム作りの一つの完成形であったと思います。
そのチームにコーチとして16期の者達と一緒に参加し優勝できたことは、あの4年時の西南戦のとき同自身になりましたが、やはり我々15期にとってはあの試合は最高でした。
我々の現役最後の試合である西南戦をパルーカス史上最大点差で勝利できた時、先輩達から優勝させてもらった前年のチームからやっと我々のチームになったと感じましたし、我々が目指したチームができたことに満足感でいっぱいでした。ただ優勝できなかったことは悔しいですが西南大学とのライバル意識を崩すことなく歴史を一つ築いたことも我々の大きな自信になった思います。
この後、波多野さんと共にオフェンスコーディネーターをした富濱君・プレイングコーチとして又、関西社会人チームで現役選手の目を全国に向けた松本くん・現役時代の交通事故での大怪我の時トレーナーに興味を持ち現在テキサス大学でバイオテクニカル・メディカルプログラム(医療工学の修士コース)に在籍している中邑くん・フレッシュマンコーチやもろもろの雑用係コーチをした私中河原など引退後もパルーカスに参加し、その後の人生をパルーカスに影響された人が多いのもあの試合の自身だと思いますし、我々15期の特徴ではないでしょうか。
これから10年、20年後パルーカスがどんな大人に成長するか楽しみです。今後の20年は九州のフットボール界ではなく全国のフットボール界をリードするパルーカスであることを願っています。我々15期を代表して、本当に素晴らしい人や思い出を与えてくれたパルーカスに感謝いたします。ありがとうございました。
(中河原 裕治)
<第15期部員>
岡 芳孝(78・OT)坂口 晃一(42・FS)田尻 拓也(68・LB)富濱 毅(7・QB)豊福 晃(50・NG)
中河原裕治(91・LB)中邑 隆之(73・G)中村 徳角(44・DL)野本 準二(22・CB)深田 真也(65・OL)
松浦 昭広(13・SB)松本 宗久(21・RB)矢野 宏政(85・WR)植山 美穂(M)吉村 民(M)
吉武 美和(M)
[THIS IS AMERICAN FOOTBALL NEWS IN KYUSHU UNIVERSITY]
こちら九州大学にある、スタジオからニュースをお知らせします。
先頃('94かなり昔ですが)、QB水迫操るオプションオフェンスと主将二川率いる鉄壁のディフェンスによるQ大台風16号が発生し福岡を中心に猛威をふるい、春のオープン戦で連戦連勝を突き進んでいるということです。さらにその勢いは関西地区まで広がり、関西1部リーグに所属していた神戸大学を僅差ながら勝利したということです。
番組の途中ですが、ここで臨時ニューズをお知らせします。ただいま入った情報によりますと、Q大の松原寮で、H渡とK口がテクモボウルで一触即発の状態にあるということです。現場からY内さんに伝えてもらいます。Y内さん!!
はいこちらY内です。ただいまQ大の松原寮にいます。詳しいことを言いますと、H渡のリードで迎えた最終Q、残り数秒、K口の攻撃でモンタナのパスがJ・ライスにヒット、そのまま走りきればTDで逆転だったが、H渡が追いつき時間切れ、薄氷を踏む思いの勝利にも、H渡、「K口、余裕やね!」の発言。この発言にK口ぶち切れたということです。以上です。
ありがとうございました。先程の続きですが、春も終盤を迎え、初の福岡ドームでの試合、しかしながら西南に惜敗、これで一時勢いが弱まったかのように見えましたが、その後、雨風とも強くなり、大型で勢力の強い台風として九州学生秋季リーグに上陸しました。しかし、第1戦の対・久留米大学では厳しい追い上げにあい、また第3戦の対・第一経済大学では2度の先行を許すなど、勢いはやや停滞ぎみでありました。それでも、福岡ドームでの福大戦では最大瞬間風速50Mを記録するなど、相手エンドゾーンに雨あられの攻撃を展開し、完勝しました。そしていよいよ西南との全勝対決、前半は一進一退の攻防が続きましたが、後半、キッキングのミス等から大量得点を献上、そして・・・。こうして、Q大台風16号(16期)は熱帯低気圧となって'94の舞台を離れていきました。試合会場となった西南グラウンドに最後に残ったのは我々が流した涙と当時WRであったK林が忘れて帰ったショルダーであったということです。以上、九州大学のスタジオからお送りしました。
<おまけ>
我等16期は個性豊かな人間(動物)の集まりで、黒人に始まり、ヤンキー、侍、ゴリラ、マゾ、ケツ出し星人、ガチャピン、借金大魔王、数え上げたらきりがない。こういった奴等を束ねたのが強力なリーダーシップを持った、主将モンキー二川であった。彼に対する絶対の信頼の元に全員一丸となって戦ったというのが16期の特徴のように思う。
最後に九大アメフトの20年の歴史の中の1ページを刻むことができたことに感謝すると同時に今後のさらなる発展を期待する。
(鹿毛 敏伸)
<第16期部員>
阿野 泰史(9・WR)石井 聖治(75・T)上野伸一郎(33・RB)奥本 寛治(83・CB)岡 信行(88・DB)
甲斐 亨(70・LG)鹿毛 敏伸(27・FS)川口 茂幸(86・DT)久保 貴彦(53・OG)桑野 磨(61・C)
小林 勲(25・WR)武安 伸幸(34・RB)田原 将(67・CT)廣渡 照文(96・LB)二川 英俊(19・LB)
牧野 晃久(87・WR)松田 淳也(20・CB)水迫 文樹(3・QB)三谷 一(49・DL)山内 敏弘(14・K/P)
山田 賢之(24・LB)山口 浩史(36・RB)吉川 実(84・DE)山口 亜由美(M)
「僕が監督になって経験したチームの中でね、今年のチームがね、優勝するには一番厳しい年と思うんよね」
波多野監督のこのショッキングな一言から95年の僕達のシーズンは始まった。今年のシーズンは苦しいものになると選手の誰もが覚悟していた。というのも今年のチームは近年最強とうたわれた昨年のチームから大量の卒業生を送り出し、攻守スターターほぼ総入れ替えという再建色濃厚なイメージだったからだ。
勝つためには・・・・・・チームのスタートは連日に及ぶミーティングから始まった。4年生は副将梁井の合コン禁止、麻雀禁止、etc...の大号令のもと絶対あ優勝するという意思を確認しあった。また、サンスターファイニース、京都大学ギャングスターズ訪問、フィジカルトレーニングスコーチの招聘、またそれによる筋トレ、走り込み、食事メニューの改善、攻守システムの大幅な変更などチームの改革は急ピッチで行われていった。もちろん何の障害もなかったわけではない。練習内容(筋トレ、走り込み)をめぐって選手コーチ間で本気でけんかになる時もあったし、幹部自らが決めた走り込みメニューを幹部(OFFENCE副将)自らがリタイヤするなどのアクシデントもあった。また芋焼酎の香りをふんだんに漂わせながら練習する奴や、試合中にうんこを漏らした奴、またプレーブック作成の(全て実話)ために家を訪れた奴にオナニーを目撃された奴などの馬鹿な人もいてやる気をそがれることもあったが、主将溝口のもと冬、春、夏、と苦しい練習に耐え、チームは急速に勝利に対するモラルを高め、福大、西南、そして広大を破り、3年ぶりに九州王座、西日本王座を勝ち得ることが出来た。
95年シーズンに勝利することが出来た大きな要因として下級生特に2年生の活躍、そして多くのフルタイムコーチの存在の2点が挙げられる。コーチ、マネージャー、OBの方々など選手以外の存在、つまりチームとしての総合力が試合の結果に顕著に表れる、そういう事を痛感させられた1年間であった。
シーズン終了後の卒業前に、4年生みんなで言った温泉旅行がシーズンオフのささやかな思い出として心に残っている。
(丸山栄三郎)
<第17期部員>
家田 秀康(55・T)伊藤 祐二(40・DB)浦野 和雅(28・WR)川野 浩史(45・LB)高江洲義忠(41・CB)
中島 幹夫(30・RB)中村 卓也(89・TE)東 信吾(6・WR)藤原 研三(47・LB)福山 宗久(81・DL)
丸山栄三郎(29・RB)溝口 勝也(56・G)三原 弘生(10・LB)三間坂哲治(18・WR)望月 康孝(98・DT)
元川 具之(51・T)門田 実留(37・RB)梁井 公輔(72・DE)山本 直史(46・RB)米沢 栄倫(95・LB)
倉田 理恵(M)
我々、18期は私が知る限りでは、1番人数の少ない年で選手11名、マネージャー2名です。もっとも1年の頃は、20名以上いたので、もう少し残ってほしかったのですが。
パルーカスに入部した当時は4年生から2年生までで60人もの選手がいて、特に4年生3年生に、たのもしい方が多くかなりの大所帯であったイメージがあります。一年生の夏休みの頃には、現在の11人ぐらいに、しぼられてきたように思いますが、例年の1年生は自動車免許取得のためや、実家に帰ったりして夏の練習にはあまり顔を出さなくても良いという事になっていますが、我々はほとんど休んでなかったように思います。みんなまじめだったと思いますが、一人休むとダミー出しなどの練習の準備がきつくなるせいもありました。結局1年、2年の時は、チームは優勝をのがしてしまうのですが、私にとっては、かなり印象深い2年間でした。それはフットボールの面白さがわかり始めたのと、先輩に色々良くしてもらったからだと思います。2年間優勝できなかった悔しさが大きかった分、3年の時の優勝、平和台BOWL勝利は大変嬉しい出来事でした。しかし東京ドームでの地区対抗では、東日本のフットボールのスピード、うちとの性質の違いを感じ、更なるレベルアップの必要性を感じました。4年になり関西、関東との交流の機会が増え、関学との合同練習、法政大との試合などがありました。この2つの遠征にかける意気込み、特に中嶋君のそれは凄まじく、関学では関学グッズを買いあさり関学グッズに身をかため、法政戦では彼の様々な言動は法政を圧倒、感心させました。それがきっかけで法政の全監督とトレーナーが夏に九州にくることになったと私は信じています。秋のリーグ戦は、まだ思い出すのも不愉快なので書きたくありませんが、結果は3勝1敗1分で同率2位、得失点差で3位でした。
後輩達には、優勝はもちろんの事「フットボールしていて本当に良かった」そう思わせるチームを作っていってほしいと思います。ガンバレ!!
最後に我々が愛すべき男、花田について書かせてください。こいつはチームのために体重30キロも増やしたナイスなヤツ。その容貌は遠めに黒人、近づいてアラブ系。子供にハローって言われたり、眉毛薄いだの、肝臓悪いだの、留学生、象、サイババ。良いヤツなんです。
(國井 崇浩)
<第18期部員>
秋永 雅也(99・LB)川野 裕治(79・DL)國井 崇浩(97・LB)田浦 淳也(82・TE)笘野 達也(8・LB)
中嶋 勉(74・OL)西吉 寿彦(76・DL)花田 祐二(71・C)藤山 英昭(12・QB)安永 和憲(48・DB)
山本 厚(31・RB)竹迫 直子(M)武瀬 恵美(M)
入部当初の希望ポジションは、QB6(国元、弥永、市浦、根井、斉藤、小柳)、RB6(松本、萱嶋、佐藤尚、小金丸、朝日、山中)、WR8(山下浩、権田、森、池末、佐藤正、前田、川辺、篠田)、TE1(土井)、OL3(和田、山本、岩崎)、DL4(山下泰、長濱、日下、山下健)、LB2(瀧谷、梅崎)、DB1(西野)だった。記憶が正しければ少なくともざっと31名になる。最終的に残ったのは18人、その上希望通りのポジションでいられたのは半数程度であった(右欄参照)。中には「どこでもいいや」といっているうちにOLになった和田のような特殊な人間もいたが、皆総じて目立ちたがり屋だったといってよいだろう。
一回生時は最終戦で優勝を逃した。オフには多くのメンバーが部を去り、またこの時大々的にコンバートが行われた。そして優勝した二回生時は多くのメンバーが早くも試合に出場し、「優勝は2年生のおかげ」と言わしめた(17期欄参照)。そのオフには後の主将国元がQBからDLにコンバートされた。3回生時は優勝を逃し、いよいよ最終学年を迎えることとなる。
二回生時から経験を積んだメンバーが多く、主将国元のリーダーシップの元、些細な出来事で喧嘩する人間もいたものの(佐藤尚vs山下浩、佐藤尚vs斉藤、その他潜在的ないざこざは数知れず?)、「王座奪還」という点で一つにまとまり、優勝が確実視されたチームらしく、春は無敗(神戸引き分け)で切り抜けた。そしてウエスタンボウルの開催が決定された。チームもウエスタンでの対戦を楽しみにし、関係者も九大のウエスタン出場を確信し、各報道機関に取材を働きかけた。しかし、逆に自分たちの力を過信してしまったために、第三戦にてノーハドルとフレックスボーンの奇襲に遭い、まさかの敗北を喫してしまう。
「能力では負けても戦術で勝つ」が従来の基本戦略であったのに対し、今回はなまじ能力に自信があったために、戦術面の徹底を怠ったのが最大の敗因と言えるだろう。目立ちたがり屋、エゴイスト(?)の集まりの末路としては、当然だったのかもしれない。しかし、その後九大は3連覇、現在も4連覇を達成しようという勢いである。我々の犯した過ちが反面教師となり、現在の快進撃に繋がっていると信じたい。
<第19期部員>
池末 裕明(5・RB)市浦 英明(16・CB)萱嶋 建吾(39・RB)国元 将生(13・DE)小金丸亮二(22・RB)
権田 博之(17・WR)斉藤 拓(65・LB)佐藤 尚宏(91・RB)瀧谷 善太(11・LB)土井 健司(77・OG)
長濱 浩之(90・DE)根井 秀樹(43・LB)松本健太朗(21・RB)森 康司(15・WR)和田 肇(54・OT)
弥永 企史(4・CB)山下 浩二(80・WR)山下 泰徳(59・DT)阿部 和恵(09・M)中島 美和(04・M)
RBの先輩に自分のしゃばいプレーを注意され、更に勢いあまって「アホかー死ねー」と言われたことに逆切れして、「まず、おまえが死ね」と言う“バカミノこと加美野”に始まり、夏の一発目の練習で、10時の部員の電話で起きて、グラウンドに来たとたん「もっと早く起こせよ!」とかっこいいことを言う“熱い主将原田”、「犬丸行くために筋トレの時間早めるな」と人に怒っといて、次の日に自分のデートのせいで、前から決まっていたミーティングを無くしたりする“二番煎じの安東”、ウエスタンボウルの2週間前に「研究室の慰労会があるけ、絶対に行かないかん」と顔をしかめながら実は合コンに行ってた“四天王山根”、それに便乗していた“エロス古里”等、我々20期の究極のテーマは<人に厳しく、自分に優しく>であった。
思い起こせば、新チームになって早々に前波多野監督の辞任が決まり、手探りの状態からの出発となることを余儀なくされた。さらに後援会からの「今年優勝できんかったら、終わりやぞ!」という温かいお言葉を頂きながらやる気倍増。相次ぐマネージャーの退部で、マネージャー業まで四年でやることができるというおまけまで付いてきて、ウハウハ状態であった。
緒戦にして決勝戦と言われた久留米戦の前日には、夜の10時のグラウンドで、4年全員で明日への思いを1言ずつ語り、自分の練習パートのグラウンドに酒をまくという粋なことまでして、何とか勝利することができた。戦績的には、3年ぶりの九州リーグでの優勝、平和台ボウル勝利と一応の成果はおさめることが出来たのではないだろうか。京都大学との決定的な敗戦は記憶に新しいが、主将原田の言葉を借りるなら、物事には順序というものがあって、20期の我々にとってやはり九州王座奪回というのが最優先課題であった。その点で、チームのモチベーションというのは京大の持つそれとは決定的に違ったのであろう。(日本一を目指すと言う点で)つまり、本気で京都に勝ちたい、日本一位になりたいと思うなら九州リーグごときで神経を使っていてはいけないということでしょう。
自他共に認める仲良し軍団、第20期は、これまた自他共に認める<わがままさ>を隠しつつ、これからも良い付き合いをしていくでしょう。最高の仲間と会うことができただけで、この部に入った意味がありました。
(浜田 貴将)
<第20期部員>
安東 靖司(70・DL)飯山 領(88・WR)井手 哲(1・LB)緒方 大輔(2・CB)加美野智公(34・RB)
萱嶋 創(44・FS)小島 洋介(75・C)竹内 直英(7・WR)浜田 貴将(3・SS)原田 直樹(73・OT)
松本 洋平(50・OG)古里 健一(19・QB)三宅 和則(98・DL)山根 崇(84・TE)吉井 啓貴(72・OG)